เข้าสู่ระบบ紫外線の光に浮かんだ文字を、五人はしばらく見つめていた。
私はここから出た。
でも、誰かがもう一度連れ戻した。
壁材へ染み込んだ文字は、表面だけに書かれたものではなかった。美月が手袋をつけ、剥がれかけた塗装の端を慎重に確認する。紫外線を角度を変えて当てると、文字の輪郭は壁の内側まで残っていた。
「最近書いたものじゃない」
美月が低く言った。
澪は振り返る。
「分かるの?」
「塗装の上に書かれてるんじゃない。古い層まで染みてる。少なくとも、今夜誰かが書いたとは考えにくい」
悠斗が焦げた壁へ近づく。
「八年前?」
「断定はできない。でも、その可能性は高い」
奈々香が両腕を抱いた。
「じゃあ、本当に澄花が書いたの?」
誰も答えられなかった。
だが筆跡は澄花のものだった。
音楽室の楽譜。
心霊研究会の古いノート。
高校時代、澄花が何度も書いた丸みのある文字と一致している。
澪は一行目を見た。
私はここから出た。
胸の奥で、八年間動かなかった何かが崩れた。
「じゃあ……」
声が掠れる。
「私が澄花を置いて逃げたあとも、生きてた」
美月が澪を見る。
「そうなる」
「準備室から出た」
「少なくとも、これが本人の記録なら」
澪は焦げた扉を見た。
八年前の自分。
開かない扉。
助けを求める澄花。
背後から腕を掴んだ誰か。
そして、自分は逃げた。
その記憶を、ずっと澄花の最後だと思っていた。
「私が見捨てたから死んだんじゃない」
言葉にした瞬間、胸が軽くなることはなかった。
むしろ別の重さが加わった。
「でも、誰かがもう一度連れ戻した」
壁の二行目。
美月の目がそこへ落ちる。
「一度出た澄花を、誰かが捕まえた」
「事件の翌日まで生きてたなら」
悠斗が検査記録を見る。
「その誰かは、警察が捜索してる最中にも校内を動けたってことになる」
「管理通路を使えば」
奈々香が言う。
「見つからずに動ける」
朔は無言で壁の文字と通路図を撮影していた。
澪はその横顔を見て、胸元の手帳へ指を当てた。
まだ隠している。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
その一文が、いままでよりはっきりと意味を持ち始めていた。
「翌日」
美月が突然呟いた。
澪が見る。
美月は小瓶を握ったまま、視線を床へ落としている。
「何?」
「私、来た」
声が小さい。
「どこに?」
美月は答えるまでに長い間を置いた。
「ここ」
澪の呼吸が止まる。
「事件の翌日、私は一人で七刻女学校へ戻った」
悠斗が顔を上げた。
「は?」
「警察の捜索が本格的に始まる前」
「いつ」
「明け方」
準備室の湿った空気が、一気に重くなる。
「どうして」
澪が問う。
美月は小瓶を見つめた。
「澄花が死んだと思えなかった」
「でも警察が」
「警察は血の量を見て、死亡している可能性が高いと言っただけ。遺体は見つかってなかった」
美月の声には、当時の息苦しさが滲んでいた。
「救急車が来たとき、私はずっと考えてた。大量に出血してても、止血できれば生きている可能性はある。頭部なら見た目以上に血が出ることもある。何も確認しないまま死んだと決めるのが嫌だった」
「それで一人で戻ったの?」
「うん」
「危険だって分かってたでしょう」
「分かってた」
美月は苦く笑った。
「だから誰にも言わなかった」
悠斗が拳を握る。
「お前、昨日からそればっかりだな」
「あなたもでしょう」
「そういう話じゃない!」
声が響く。
朔が間へ入らず、ただ二人を見ていた。
美月は続ける。
「門の近くにはまだ警察が少なかった。裏側の崩れた柵から入った。理科準備室へ来たら、この小瓶が床に落ちてた」
標本七。
「そのとき、壁の文字は?」
澪が尋ねる。
「見てない」
「紫外線がなかったから?」
「それもある。でも、もし普通に見えてたら覚えてる」
美月は焦げた扉を見る。
「準備室には血の跡があった。誰かが歩いた跡も。でも、澄花はいなかった」
「誰かがいた?」
その問いで、美月の表情が変わった。
「いた」
奈々香が息を止める。
「誰」
「分からない」
悠斗が苛立つ。
「また分からないかよ」
「顔を見てない!」
美月が鋭く返す。
「奥の廊下で音がした。誰かが歩いてた」
「警察じゃないの?」
「違うと思う」
「何で」
「カメラを持ってた」
澪は朔を見た。
奈々香も。
悠斗も。
朔だけは表情を変えない。
「どんなカメラ」
朔自身が尋ねた。
美月は一瞬、答えにくそうに目を逸らした。
「あなたが使ってたものと同じに見えた」
沈黙。
「八年前の撮影用?」
「黒いビデオカメラ。肩に載せるほど大きくはない。側面に赤い録画ランプがあった」
「顔は?」
「見てない。角を曲がったところで気づかれた」
「何があった」
「向こうが止まった。私も止まった。赤いランプだけが見えた」
美月の呼吸が浅くなる。
「それから、こっちへ歩いてきた」
「逃げた?」
「走った」
「追われた?」
「分からない。振り返らなかった」
澪の背中が冷えた。
八年前。
少女を置いて逃げた自分。
そして翌朝。
校舎の中から逃げた美月。
誰かが撮っていた。
「どうして警察に言わなかったの?」
澪の声が強くなる。
美月の唇が震えた。
「小瓶を持ち出してたから」
「それだけ?」
「不法侵入もしてた。捜索中の現場に勝手に戻った。見た人間が誰かも分からない。私が疑われると思った」
「澄花が生きてたかもしれないのに?」
澪自身、言ったあとで胸が痛んだ。
自分も同じだった。
澄花の声を聞いたことを隠した。
奈々香も。
悠斗も。
誰もが、自分が疑われることを恐れて口を閉ざした。
その沈黙の積み重ねが、八年間を作った。
「ごめん」
美月が小さく言った。
「言える立場じゃないけど」
澪はそれ以上責められなかった。
「事件翌日って、俺は警察にいた」
朔が言った。
全員が彼を見る。
「午前四時台から事情聴取を受けてる。途中で移動はしたが、時間帯によっては記録が残ってるはずだ」
「途中で?」
悠斗がすぐに食いつく。
「どこへ」
「署内。別室へ移された」
「一人になった時間は?」
「覚えてない」
「またかよ」
「八年前の事情聴取の分刻みの記憶まで残ってる方がおかしい」
朔の声は平らだった。
「確認できるなら後で確認する」
「警察が記録を残してればな」
奈々香の視線は朔から離れなかった。
澪は信じたいと思った。
事件翌日に朔が警察にいたなら、美月が見た人物ではない。
でも。
未編集映像。
八年前のカメラ。
澄花の楽譜。
澪は胸元を押さえた。
「澪」
朔が気づく。
「何かあるのか」
「……ない」
嘘をついた。
その瞬間だった。
準備室の奥から、小さな電子音が鳴った。
ぴっ。
五人が振り返る。
ビデオカメラの起動音。
澪は八年前、何度も聞いた。
「どこ」
悠斗が懐中電灯を動かす。
薬品棚。
誰もいない。
だが、棚の裏から青白い光が漏れている。
朔が近づき、側面を調べた。
「動く」
棚を美月と悠斗が支え、少しずつ横へずらす。
裏の壁に、小さな金属扉があった。
幅五十センチほど。
鍵はない。
朔が開ける。
浅い保管庫。
中に、黒いビデオカメラが置かれていた。
澪は息を呑んだ。
八年前。
朔が使っていたものと同型。
いや。
角の白い傷。
側面に貼られた剥がれかけの番号札。
「これ……」
澪が朔を見る。
朔の目もカメラから動かなかった。
「俺が使ってた本体だ」
「警察に提出したんじゃないの?」
「提出した」
「じゃあ何でここにある」
悠斗が詰め寄る。
「知らない」
「返却されたって前に言ってたのは?」
「返却された機体とは別だ」
朔の声が初めて僅かに揺れた。
「同じ番号がある」
美月が側面を見る。
誰も触れていない。
それでもビデオカメラの液晶が開いた。
青白い画面。
電池表示は空。
バッテリーは完全に切れている。
「動くはずない」
朔が呟く。
映像ファイルが一つ表示された。
再生。
誰もボタンを押していない。
画面に理科準備室が映った。
日付。
八年前の事件翌日。
午前五時十二分。
カメラの視点は、準備室の廊下側からだった。
焦げた扉が開く。
中から、少女が出てくる。
澪の指先が震えた。
「澄花」
間違えようがなかった。
制服は泥と血で汚れている。
額の右側が裂け、乾いた血が頬まで流れていた。
歩き方も弱い。
それでも自分の足で立っている。
生きていた。
八年前。
失踪した翌朝。
澄花は生きていた。
奈々香が泣き声を漏らした。
「本当に……」
美月は画面へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「私が来た時間と近い」
映像の澄花はカメラへ気づいた。
足を止める。
顔を上げる。
恐怖より、怒りがあった。
「犯人は、昨日の七人の中にいる」
澪の心臓が強く打つ。
七人。
雨宮澪。
神代朔。
椎名澄花。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
澄花自身を含めた、あの日の七人。
画面の外から男の声がした。
『分かってる。だから、証拠を撮りに来た』
声は激しく歪んでいる。
低い音と高い音が重なり、誰のものか判別できない。
透の加工に似ているようにも聞こえた。
澄花がカメラへ近づく。
『本当に分かってる?』
『ああ』
『じゃあ、昨日消された八分を――』
映像が激しく乱れた。
白い線。
砂嵐。
音が切れる。
「待って」
澪が液晶へ手を伸ばす。
映像はそこで途切れた。
再生画面に戻る。
だが日付表示が変わった。
現在。
今夜。
午後十一時四十二分。
「何……」
奈々香が後退する。
次の映像が自動で始まった。
校門。
今夜の七刻女学校。
雨。
木箱が六つ並べられている。
まだ澪たちは来ていない。
門の外にも誰もいない。
画面の端から、一人の人物が歩いてきた。
黒い雨具。
深いフード。
顔は見えない。
右手に撮影用のカメラを持っている。
人物は門の前で一度立ち止まり、六つの箱を見る。
それから鍵の開いた門を抜け、校舎へ入っていった。
「こいつが」
悠斗の声が低くなる。
「俺たちより先に入った奴」
美月が時刻を見る。
「全員がまだ山道の入口にいた時間」
人物は一度も顔を上げない。
歩き方から性別も判別しにくい。
身長は朔や悠斗に近い。
右手のカメラだけが、雨を受けて鈍く光っている。
映像の最後。
校舎へ入る直前。
フードの人物が一瞬だけ立ち止まった。
カメラを持っていない左手が、首元へ上がる。
袖口から、腕時計が覗いた。
映像がそこで止まった。
黒い文字盤。
銀色の縁。
八年前、七人全員が持っていたのと同じ型だった。
校門を越えた瞬間、五人のスマートフォンが一斉に鳴った。 短い通知音、着信を知らせる振動、圏外から通信網へ復帰したときの表示が重なり、雨上がりの山道に不自然なほど生活の音が戻ってくる。澪は足を止め、画面の左上に立ったアンテナ表示を何度も確かめた。つい数歩前まで、一度も外部へつながらなかった端末だった。「電波、戻ってる」 奈々香の声は掠れていた。濡れた衣服の上から美月に渡された保温シートを巻き、両手でスマートフォンを握っている。「警察」 美月はそれだけ言うと、すぐ緊急通報を始めた。 悠斗も別の番号へ電話を掛け、管理会社へ現在地と校門の開放を伝えている。朔は校舎を振り返ったまま、小型カメラの録画を止めなかった。夜の底に沈んだ七刻女学校は、さっきまで五人を閉じ込めていた建物とは思えないほど静かだった。 澪は喉を押さえながら、門の内側を見た。 透を連れて出られなかった。 二年七組へ戻ったとき、遺体は消えていた。封印は破られておらず、窓も開いていなかった。それでも簡易担架の上には、〈七刻女学校・八人目〉と書かれた濡れたカセットテープしか残されていなかった。「相馬透さん、二十九歳。意識なしではなく、死亡を確認しています」 美月の声が電話口で硬くなる。「救命救急に勤務しています。私が頸動脈、呼吸、瞳孔を確認しました。首に強い圧迫痕がありました。遺体が……今は見つからないんです」 相手が何を訊いたのか、美月は一度目を閉じた。「いいえ、説明が難しいのは分かっています。でも、死んでいました。五人全員が確認しています」 雨はほとんど上がっていた。 雲の切れ間から、東の空だけが薄く白み始めている。夜明け前の冷えた風が山から降り、濡れた木々の匂いを運んできた。 澪はその風の中で、初めて自分の身体がひどく震えていることに気づいた。 怖かったからだけではない。 疲労。 寒さ。 そして、透を置いてきたという感覚。 いや。 置いてきたのではない。 消えた。 その違いを、頭が受け入れようとしなかった。 最初の警察車両が到着したのは、空が灰色へ変わり始めた頃だった。 続いて救急車、所轄の捜査員、鑑識車両。山道の入口から校門まで白と赤の灯りが連なり、七刻女学校は短時間で封鎖された。五人は一人ずつ毛布を渡され、別々に事情を聞かれることになった。 澪は
映像は、何度止めても同じ場所から始まった。 雨に濡れた七刻女学校の校門。 錆びた鉄柵。 まだ誰も到着していない山道。 そして、午後十時四十分を少し過ぎた時刻。 黒い雨具を着た人物が、画面の左端から現れる。 理科準備室の床へ置かれた古いビデオカメラを囲み、五人は黙ってその姿を見つめていた。 人物は深くフードを被っている。 顔は見えない。 背丈は朔や悠斗と大きく変わらないようにも見えるが、厚い雨具のせいで肩幅すら判別しづらい。歩幅も一定ではない。わざと特徴を消して歩いているようだった。 人物は門の前で立ち止まる。 腰を屈める。 地面へ置かれていた太い鎖を拾った。「巻き戻して」 美月が言った。 朔が映像を数秒戻す。 黒い人物が鎖へ触れる直前。 門にはまだ、六つの木箱がない。 再生。 人物は鎖を外し、門扉を人一人が通れる幅だけ開いた。 そのあと画面の外へ消える。 二分ほどして戻ってきたとき、両手に古い木箱を二つ抱えていた。 一度。 二度。 三度。 往復し、六つの箱を門前へ並べる。 雨宮澪。 神代朔。 早乙女美月。 黒瀬悠斗。 白石奈々香。 相馬透。 それぞれの名札を確認するように、人物が一つずつ蓋へ手を置く。「最初から、こいつが置いた」 悠斗の声が低くなった。「箱も。鎖を外したのも」「装置の起動時刻とも近い」 朔は監視室で撮影した操作記録を呼び出し、時刻を照らし合わせる。「管理者の最終ログインが十一時七分。その前後に、各部屋の制御装置が待機状態へ入ってる」「この人がやった?」 奈々香が訊く。「可能性は高い」「透を殺したのも?」 声が震える。 誰もすぐには答えなかった。 画面の中で、黒い人物は最後の箱を置き終えると、校門を抜けて校舎へ向かっていく。 右手には撮影用のカメラ。 左手には小さな黒い鞄。 管理通路にあった装置を操作するための端末が入っていたとしても不思議ではない大きさだった。「待って」 澪が画面へ近づいた。「手」 黒い人物が雨具のフードへ触れる。 袖口が少し上がる。 右手首に腕時計。 黒い文字盤。 銀色の縁。 太い革のベルト。 悠斗が自分の手首を隠すように腕を下ろした。 八年前の映像。 理科準備室へ澄花を押し込んだ人物。 画面の端へ一瞬だけ映
紫外線の光に浮かんだ文字を、五人はしばらく見つめていた。 私はここから出た。 でも、誰かがもう一度連れ戻した。 壁材へ染み込んだ文字は、表面だけに書かれたものではなかった。美月が手袋をつけ、剥がれかけた塗装の端を慎重に確認する。紫外線を角度を変えて当てると、文字の輪郭は壁の内側まで残っていた。「最近書いたものじゃない」 美月が低く言った。 澪は振り返る。「分かるの?」「塗装の上に書かれてるんじゃない。古い層まで染みてる。少なくとも、今夜誰かが書いたとは考えにくい」 悠斗が焦げた壁へ近づく。「八年前?」「断定はできない。でも、その可能性は高い」 奈々香が両腕を抱いた。「じゃあ、本当に澄花が書いたの?」 誰も答えられなかった。 だが筆跡は澄花のものだった。 音楽室の楽譜。 心霊研究会の古いノート。 高校時代、澄花が何度も書いた丸みのある文字と一致している。 澪は一行目を見た。 私はここから出た。 胸の奥で、八年間動かなかった何かが崩れた。「じゃあ……」 声が掠れる。「私が澄花を置いて逃げたあとも、生きてた」 美月が澪を見る。「そうなる」「準備室から出た」「少なくとも、これが本人の記録なら」 澪は焦げた扉を見た。 八年前の自分。 開かない扉。 助けを求める澄花。 背後から腕を掴んだ誰か。 そして、自分は逃げた。 その記憶を、ずっと澄花の最後だと思っていた。「私が見捨てたから死んだんじゃない」 言葉にした瞬間、胸が軽くなることはなかった。 むしろ別の重さが加わった。「でも、誰かがもう一度連れ戻した」 壁の二行目。 美月の目がそこへ落ちる。「一度出た澄花を、誰かが捕まえた」「事件の翌日まで生きてたなら」 悠斗が検査記録を見る。「その誰かは、警察が捜索してる最中にも校内を動けたってことになる」「管理通路を使えば」 奈々香が言う。「見つからずに動ける」 朔は無言で壁の文字と通路図を撮影していた。 澪はその横顔を見て、胸元の手帳へ指を当てた。 まだ隠している。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文が、いままでよりはっきりと意味を持ち始めていた。「翌日」 美月が突然呟いた。 澪が見る。 美月は小瓶を握ったまま、視線を床へ落としている。
管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す